


ひと×場所×モノ。
第三回目のインタビューゲストは、建築家の岸 和郎さん。
2007年の秋に、『逡巡する思考―Writings1982-2007』という書籍を出版された岸 和郎さん。25年の間に様々なテーマや媒体にて書かれてきた文章をまとめた内容の濃い一冊です。エポックとも見えるこの書籍の紹介とともに、膨大な歴史的知識と その場その瞬間に対する柔軟な洞察力を併せ持った岸さんのクリエーションに迫ってみたいと思います。
「制作や生活において、身近にある"モノ”を一点ご紹介ください」というお願いに、紹介していただいたのは、カッシーナのノートです。端正な黄色いノートに書かれた手描きのスケッチを見せていただきながら、インタビューは進みます。
Text: 岡澤理奈(岡澤理奈事務所)
Photo: 平野 愛
岸 和郎さん × オフィス × カッシーナのノート

"カッシーナのノート"
インタビュアー:素敵な色ですね、黄色のノートって珍しいですよね。
岸 和郎:自分の使う道具に特にこだわりは無いんだけど、このノートはずっと使っていますね。ルイス・カーンじゃないけど、黄色い紙の上だとスケッチが上手く見える(笑)。これはカッシーナで販売していたノート。在庫をありったけくださいと注文したんだけど、もうブルーしか残ってないそうです。だから今はブルーも使います。

中を見せていただいてもよろしいですか?
いいけれど、でも本当は自分の「手の仕事」を見られるのはあまり好きじゃない。手の跡はあまり人に見せたくない、というのが正直なところです。
痕跡を残したくないという事ですか?
単純に、手の跡を見せるのが、はずかしいだけです。生理的な痕跡を人に見せたくないから。
さて、早速ですが。このたび、『逡巡する思考―Writings1982-2007』という書籍を共立出版からお出しになりましたね。今日はその話を中心にお伺いしたいと思います。
読ませていただいて、特に「ダイハード・モダニズム」という単語が気になりました。「ダイハード・モダニスト」と言われた当時と、現在とでは状況は違いますか?その差異をどのようにお感じでしょうか?
「ダイハード・モダニスト」、それは『ようやく生き残ったモダニスト』という意味の言葉ですが、随分昔、1990年代前半に、私の建築を評してジェフリー・キプニスというアメリカの批評家が僕に対して言った言葉なんですね。
建築の状況を少しだけ説明すると、1960年代の終わりにロバート・ヴェンチューリの「『建築の多様性と対立性』(Complexity and
Contradiction in Architecture)」という本が出版された。この本はとても大きな影響を建築の世界に与えて、その影響下に70年代終わりには「ポストモダニズム」という思潮、
「歴史主義的で折衷主義的な建築」という風潮が出てくる。もちろんモダニズムサイド、抽象主義からの反動や対抗もあって、より抽象的な方向に行く流れもあった。ピーター・アイゼンマンを初めとするニューヨーク・ファイブなどはそうですよね。
だけどこれだけは言えるのは、「ポストモダニズム」も「レイトモダニズム」も、「モダニズム」という言葉を外しては定義できなかったという点。
近代主義/モダニズム っていうのは確かに問題も抱えているし、終りかけているし、僕たちはその理念だけで語りきれない場所と時代に既に居るんだけど、じゃあ新しい世界像が見えているかといえばそうではない、という状況が1960年代中頃からそれこそ今日まで続いているんじゃないか。
もっと建築的に言えば、1950年にフィリップ・ジョンソンが自邸である『ガラスの家』を雑誌発表した時に、『私のデザインにオリジナリティなんてない』と言った。それは画期的なことで、建築の世界では、1950年の時点でオリジナリティという神話は壊されてしまった。だから僕たちにはオリジナリティなんてもう意味がないという時代の中に、それこそ1950年から居る。言葉を換えると、そこからポストモダニズムというのは始まったと言ってもいい。
あるいはこんな風に考えてもいい。ソ連が崩壊して、資本主義社会と民主主義社会 ― これこそモダニズムですよね ― という価値観しか頼るものがなくなって、他にオプションが無い時代に僕達は居る。すなわち、僕たちはモダニズムという檻の中に捕らわれてしまって、抜け出しようがない。もちろん、この状況はどうも違う、と地球の上に住んでいる全員が思っている訳なんだけれども。
そういう状況の中で1990年代のはじめに批評家から『ダイハード・モダニズム』と呼ばれたのは、そういう社会状況は百も承知していても、わざと、しかも意図的に、君はモダニストの流れの上に身を置こうとしてるんだね、という意味で、こちらの覚悟を確認するような意味で言われた訳ですね。
『ようやく生き残ったモダニスト』。
そういうわけで、モダニズムとしての理念や表現は、もはや時代の表現としては意味がないということが判っているけれども、自分は意地でもそこに残ってやる、という意識はずっとある。だから、あの頃、1990年代の初めに、自分のことを説明する時によく使った言葉は、「誰もが新しい時代の扉を開ける人になりたがるけど、僕にはそれは向いていない。むしろ僕は、一つの時代を終らせる立場になりたい」というものだった。
もう一つ、同じ頃、1990年代半ば頃から意識的に言っていたのは「モダニズムを偽装する」という言葉だった。これも現在何かをやろうとする時に、「モダニズムを偽装する」ということ以外に、自らを裏切らないで、誠実にモノをつくる立場があるのかどうかという事を考えた時に、僕は「無い」と思った。それで、「モダニズムを擬装する」と立場表明をしたわけです。
偽装する、という言葉についてもう少し詳しくお聞かせ下さい。
建築は、出来上がるとそれがどんなに小さなものでも社会的な事件だし、それなりに高価なお金も必要な営為だから、経済的な出来事でもある。単純に作家の主観的な「作品」と言えない側面がたくさんあって。「作品」性以外の、説明可能な合理性に裏打ちされていることを求められるわけです。特に19世紀の市民社会以降は。
前の時代、19世紀以前は、建築を建てる人は『パトロン』と呼ばれていた。パトロンが良いと言えば、幾ら建築家はそのお金を使って、それこそ作品をつくっていた。
しかし、僕らの時代にそんな『パトロン』はもういない。僕らに仕事を依頼するのは『クライアント/依頼主』と呼ばれる人達です。依頼主というのは普通の市民で、その仕事をやっていないときはどちらも、建築家も依頼主も、市民としては平等で同じ立場なんです。依頼する人とそれを引き受ける人:市民の間の契約関係になる訳です。パトロンと建築家の関係のような、"人生の関わり"を持っている訳ではない。だから例えば、クライアント/依頼主が倒産してもいいから3億円使っちゃうというのはあり得ないわけです(笑)
そうだとすると、合理性の裏付けが無いと市民社会の中の契約関係は成立しない。建築というのはそういうもの、合理的な契約関係の上に成立している。合理性の裏打ちがないと存在意義が無いと言ってもいい。だから、モダニズム/近代主義、それをもっと判りやすく民主主義とか資本主義と言い換えると、これは当たり前の話ですよね。
「擬装する」と言ったのは、もはや僕達はこのプリンシプル、民主主義や資本主義、あるいは合理主義といった近代主義の属性が全て正しい訳じゃない、ということを既に知ってしまった。ドイツの併合やソ連の崩壊がもたらした世界、もっと言えば9/11事件以降の世界を見れば、それはよく判る。でも、民主主義や資本主義、あるいは合理主義といったものまでを含めて、我々がまだ信じることが出来るのは、近代主義だけではないのか。たとえそれがベストの解答にたどり着けるかどうかわからない選択肢だとしても、あるいは二次的な可能性でしかないとしても。英雄待望論や格差こそが真実、といった風にうそぶく意見のほうが説得力のある社会の中で、少なくとも誠実になろうとすれば、近代主義を全面的に信じるのではなく、それを偽装する以外に他の道があり得るのか、と思うのです。モノをつくる人間として一番誠実な、嘘をつかないギリギリで居られる方法じゃないか、ということです。
「モダニズムを偽装する」という姿勢に関して、現在もかわらずそのような気持ちでおられますか?
だって、ロシアや中国の現在や、それにイランやアフガンでのアメリカを見ていると、反語的かも知れないけど、どうにもこれしかないかな、とは思いますね。
ただね、人生というのは思いのほか長くて(笑)。
新しい、思いもかけない切り口から、何か開けていかないかな、とは思っています。
この間の『新建築』で隈研吾さんが、“農業"というキーワードを使っていましたけれどね。その中で『モダニズムを偽装するというのは90年代の最もインテレク
チュアルな方便だった』という言い方をしていて、僕のことを指しているのかどうかはわからないけれども、『インテレクチュアルな方便』というのは、そういわれればそうだなと思ったんだけれども。
「偽装する」にしても、近代主義そのものにあまりにも頼りがいがなくなってしまったのかな、とは思いますね。今の日本を見ていてもそうじゃないですか?イギリスやアメリカで健全だと言われて日本でも目指そうとしている二大政党システムは全然機能していないし、民主主義というシステムも結構あやしい。ソ連が崩壊した1990年代前半よりも、今はもっと危うくなっていると思う。あの頃はまだ近代合理主義というのはもう少し生き残れるんじゃないかと思っていたんですけどね。

この本を今の時期に出した理由というのはありますか?
総括というおつもりでだされたんでしょうか、それとも別の何かのタイミングだったのでしょうか?
本当に単純なきっかけです。以前この出版社(共立出版)で『建築を旅する』という本を出していただきました。それが意外に評判だったそうで、出版社からもう一冊書き下ろしをと言われて、書き下ろしは無理だと言ったら、それならば今まで発表した文章をまとめさせてくれと。
この二十数年間、本当に「逡巡」し続けているわけですよ。決断ということに自信が無いんですね。
モダニズムはだめだ、と言い切るのは簡単だけれども、じゃあそう言い切ってしまって何を作れば良いのか自信が無い。ダメだとは言っても95パーセントがダメで、まだ5パーセントの可能性が残っているならば、自分たちがその中に居る時代なんだからYESの可能性はあるのかなとか、ずっと逡巡し続けている訳なんです。
論理的一貫性はもしかすると無いかもしれないけれども、そうやって逡巡し続けていることが、自分にとって誠実であることだ、と思っているんですね。ちょっと傲慢だけれども。だからこの本は"タイトルが全て"という感じでした。このタイトルが決まった時は"やった"という感じだった(笑)。
1980年代終わりに書いた文章なんかは今見て『違うじゃないか』って言ってほしいと思っている。25年間、一貫していることのほうが気持ち悪いと思っている。建築家としては、むしろ危ないことだと思う。

岸さんは、どこにも組せず、属さず、かといって傍観者でもない立ち位置にいらっしゃる様に感じます。
自分の「意志」だけじゃなくて、自分が居る場所、「京都」というのもおおいにそれに関係があると思っていますね。
建築というのは現実の社会と結びついた仕事なので、東京と京都ではプロジェクトの数が違う。例えば、経済的な規模で言えば京都というのは、悲しいことだけど一つの地方都市に過ぎない訳です。もちろん文化は別としてね。
僕自身が大学を出て初めて建築の仕事をしたのは東京で、東京から京都に戻ってきたのは自分自身の決心ではなかったので、30代の頃はすごく焦っていました。だって仕事がないんだから、京都には。同世代の東京をベースにした建築家達の仕事を見ながら、焦っていましたね。
僕はすごいヘンテコな建築家で、国内で作品集って、ほとんど出てないんですね。大龍堂の一冊くらいで、あとは全部海外から出ているんですよ。ある時、1990年代はじめなんですけれど、スペインの『エル・クロッキース』から作品集を出そうというオファーがあったんですね。そのために作品をまとめている時、彼らは、僕の事を「日本的だね」と言うんです。その時までは、自分で自分の事を京都の建築家だと捕らえても居なかったし、日本的であろうと思った事も無かった。しかし彼等の目には日本的に見えた。だったら積極的に、京都にいるのだから日本というテーマを抱えてみようか、という風に思ったんですね。
それが、自分自身が「京都」の建築家なんだ、と自覚した、初めての時です。
そうすると面白いもので。紫野和久傳(※)のプロジェクトをやることになったりしたんです。今度は現実が追いかけてきて、プロジェクトとして日本的であることを求められはじめた。
*紫野和久傳(むらさきの・わくでん)京都大徳寺の横にある料亭。岸さんは設計を担当。
http://www.wakuden.jp/ryotei/murasakino/index.html
同じ頃、これもスペインを旅している時に「あなたの建築は、僕のヨーロッパの友人が日本でプロジェクトをやっているみたいに見えるね」と言われたんです。 複雑な話ですけど、それを聴いた時、あぁそうか。と思った。 僕たちの世代というのは、団塊の世代の次ですけれども。 戦後民主主義で育った訳ですね。日教組なんてまだそんなに強くない頃で。 まだ民主主義や近代主義というのが明るい未来を持っていた時代に育った訳です。
大学のころというのは ― あまりこういう事を言ってはいけないのですが、あまり日本建築史というのを積極的に学ばなかった。 むしろ西洋建築史をどうしても一生懸命見てしまう自分がいた。 勿論、理由は例のヴェンチューリの本ですが。そんな訳で僕が、建築や、ひいてはモノを見る目というのは、基本的には西洋的な文脈がベースなんですよ。 そういう意味で、僕が日本建築を見る眼というのは、西洋人から見ている眼に近いのか、とその時思った。
日本人が日本文化を背負い、さらにその上で現代の日本建築をつくるんだ、というのとは意識の上で違う。 例えば中国の建築を見る様に日本の建築も見ているのかもしれないし、桂離宮も西欧人のような文脈で見ているな、と自分で気付く時もある。
日本の昔からの伝統的な建築や都市が"自分のものだ"と思った事は、実は僕は一度も無いんです。 例えば卑近な例で言うと、東京の新橋の屋台を見る眼というのはもうマレーシアの屋台を見るのと同じ気分ですよ。新橋の屋台を自分のものだとは思えない。 むしろ汐留のモダンな空間のほうが自分のものだと思える。
最近、本当に思うんですけど、自分たちはアメリカ民主主義が光り輝いていた時代に小中学校と教育を受けてきたという希有な世代だな、と思うんです。 その後の教育体制の変化を考えると、本当に珍しい世代なんだと思います。 もうひとつ、これも特殊なのは、自分のルーツと呼べるものがないという事ですが、逆に、近代主義というものが光り輝いていたのを自分のモノとして体験できたのは 珍しい世代なのかな、という感じはしています。
光り輝くモダニズムというようなイメージを持つに至った建築的な原風景というのはありますか?
あまり威張っていうような話じゃないんだけど、僕たちの中学時代、アメリカのテレビドラマというのがすごく盛んな時代というのがあって、それを観てました。好きだったのは、ワーナーブラザーズ三部作と呼ばれているドラマで、「77 Sunset Strip(サンセット77)」、「Surfside 6(サーフサイド6)」、 「Hawaiian Eye(ハワイアンアイ)」なんていうシリーズです。例えば、「サーフサイド6」はマイアミの物語で、港に停泊させているハウスボートに住む大金持ちの息子が探偵をするという、ほとんどあり得ないような、夢みたいな話。
そういう番組の裏にある民主主義像や、家族像のようなものが、原風景として色濃くあるような気がします。大きな冷蔵庫があって、そこには大きな牛乳が入っていて。「うちのママは世界一」とか、「パパはなんでも知っている」なんていう、アメリカのテレビの中だけにしか存在しない家庭像に憧れた。僕らの上の団塊の世代にとって、そういう風景というのは、夢にしかすぎなかったんだけれども、僕たちの時代というのは本当に冷蔵庫が家にあって、アメリカみたいに大きな牛乳瓶ではないけれども毎朝牛乳屋さんが届けてくれて、という時代に入っていたので、戦後の貧しさというのはもう消えてかけていた。むしろアメリカ的な豊かさというのが見えていて、現実の自分の家庭の彼方にはアメリカのホームドラマのようなものがあるのだろうと思った。そういう一連のアメリカ大衆文化像が自分の原風景をつくっているんだなとは思いますね。
建築というか、自分にとっての都市の原風景もそこにあるのかもしれませんね。マイアミの港に浮かぶハウスボートが建築の原点、というのも恥ずかしい話だけど。
でも仕事していないときに暖かいリゾートに行きたくなるのは「サーフサイド6」の影響かもしれないし、車はコンパーチブルが好き、っていうのもそのあたりから来ているのかもしれませんね。これは冗談ですよ(笑)

この書籍の中でも書いておられましたが、大徳寺もケーススタディハウスも何も、すべて同じように見えているということでしたね。
何でもそうだけど、僕にとって、全ての出来事が面白い。
建築は…そう、読み取るべきメディアのようなものであって。そこに作者の意図を読み取る人もいれば、空間演出装置としての演出や空間を読み取る人も居る。僕が理想としているのは、自分を本当にニュートラルでユニバーサルな場所に置いて、建築を見る事かもしれない。その空間を「比較」するのではなくて、その空間を「愉しみ」たいんですよ。
僕、大学院が設計の研究室ではなくて、歴史の研究室だったんですね。
さっきお話ししたロバート・ベンチューリの本のおかげで、デザインではなく建築史の研究室に行ったんですけれども、そこで学んだ建築を見る見方というのは消しがたく自分の中に有る。ルネサンスを見るのと同じ眼で近代建築を見て、それとおなじ眼で現代建築も見るというような見方。でないと、歴史家はできないじゃないですか。『私はこれが好きだ』では話は進まないわけです。この歴史家的な姿勢や見方は、どうも自然に身に付いているものですね。
読む歓びと愉しさ。これは、設計するのとはまた違う歓びなんですね。そして、どちらの歓びも失いたくない訳です。
モノをつくると同時に読み解くこと。同時進行であろうとすればするほど、「自分」というものが透明になって、中身が空っぽになったように感じることがあります。そんな時、受容するための自分のキャパシティをなるべく大きく持ちたいと本気で思います。そんな時に、実は、「旅に出る」。
何故旅をするかというと、『建築を旅する』という著書からの言葉でいうと、"感動の蓄積"の問題だからです。建築、空間、都市などに心が動く、そういう蓄積がないと設計なんてできないじゃないですか?
僕らは先程も言った通り、オリジナリティを否定された世代で、僕は再生産すること/再解釈することが我々に残されたことだ、と思っている。アイゼンマンがジュゼッペ・テラーニを分析したように、分析するそのプロセスで自分の作品をつくっていた時代があった。僕もそういうやり方しか設計出来ないようです。
上海でも普通の街でも、汐留でも新橋でも、何でもいい。そういう都市を見て「あ、面白いなぁ」と思うその蓄積が自分の中に出来て、それが全然別の形で自分のつくるものに表出していく。
旅をする時に、純粋に旅人である、というのもいいですけど、中国の場合はプロジェクトをやるという状態で旅をする方が、より見えてくることが多くあるので、プロジェクトをやっています。僕が今やっている中国・上海での仕事のプロセスは「設計」なんだけれども、それに重きをおいていなくて。そこで起きている事を受容する事のほうに僕は重きを置いているんですよ。出来上がってどうということよりも、そのプロセスで僕が何を自分自身の中に蓄積したのか、その事の方が今の僕には重要に思える。特に現在の中国との関わり方としてですが。
そういう体験の蓄積がご自身のフィルターを通ってまた別のものになって出てくるという事ですね。
僕は自分を「ブルーカラーの建築家」と呼んでいます。 もしかすると、世間的には僕は批評的な眼を持った建築家と思われているのかもしれないけれども、僕自身は自分の事をブルーカラーだと思っているんですね。 自分の身体しか信じないし、本なんかあまり読まないし、自分で見に行って、それでどう感じるかだけしか信じないし。 どんなにガイドブックで『傑作だ』と書かれていたって、自分の心が動かなかったらそれでアウトだし。でも『自分』は信じているわけです。だから肉体労働者の建築家だと自分のことを呼んでるんですね。
"自分を信じる"上で絶対に外せないファクターというのはありますか?
例えば旅に出かける時にこの点については必ずチェックしているというような要素などはありますか?
特にこだわって見ているところ等は無いですね。全然ルール無しです。
この本の最後も、旅行先のタイでの文章で締められていますね。それがとても印象的でした。
そう、タイでの体験は衝撃的だったんですよ。住宅街の真っ只中になかなか良い、1970年代ぽい住宅を改装した『バニラカフェ』という店があってね。それが「和カフェ」なんです。メニューが英語と日本語だけしかない。それからお店では大塚愛の曲がBGMで流れてる。びっくりした。なんでタイで大塚愛を聴くんだろうって。今のバンコクではそれが最もオシャレらしい。多分、台湾で日本のモノが人気、というのに近い感覚だと思うんだけど。
バンコクには1970年代のモダンな建物、特に住宅でいいものがあって、日本でいえば田園調布のような場所なんだけども、その住宅街の中にそういう和カフェが在る。
その面白さは「現在のバンコク」って感じがした。5年前のバンコクは、あやしげなホテルが建っていたりとか、もっとエキゾチックだったんだけど、今はもう東京みたいにインターナショナルな街になりかけている。ただ、そのプロセスが東京都とは違うし、それに上海とも、ソウルとも違う。それがとても面白い。
旅をする時には五感を駆使してらっしゃる感じがしますね。この本でもたくさんの事項について幅広く言及されていますね。"感動"という単語をよく使ってらっしゃいますが、それは対象に対して没入してしまう様なことなんですか?
やっぱり面白いと思ってしまうんですね、いろんな事が。
要は、単純に興奮するんですよ。
例えば、僕がビルバオ(※)が良いと言っていたら、皆から「何故そんな事を言うんだ」と言われるんですよね。君の立場から言えばそれは「ダメ」って言わないといけない立場でしょう、とか。だけど、僕は倫理主義者じゃないから、例えば『美術館という空間をテーマパークにしてしまっていいのかどうか』というような考え方をしない。ビルバオのような歴史のある街にアメリカの大量消費文化が美術館の顔してテーマパークを創ったのが、グッゲンハイム美術館だ、というのは確かに真実です。グッゲンハイムは、そうした文脈ではユニバーサルスタジオと同じです。そんなものをあの街に建てて良いものか、と。確かに、その怒りは正しいと思う。思うけれど、でも、同時にそれでも良いじゃないか、という気持ちも私には、実はある。そんな風に、いろいろ問題はあるけど、それでもビルバオで起きている事は刺激的だ。無責任な意見だけどね(笑)
*ビルバオ(Museo Guggenheim Bilbao) スペイン・バスク国自治州・ビルバオ市にある近現代美術専門の美術館。グッゲンハイム美術館の分館のひとつである。建築家フランク・O・ゲーリーによって設計された。脱構築主義建築を代表する作品だと評される。

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逡巡した思考をされている中で、作品としてFIXしたものを作ってらっしゃるという事実がもう一方であるわけなのですが
でも僕はね、もう自分をものすごく疑ってますよ。
これだけ作品を作ってらっしゃっていて、ですか?
ええ。書いてるモノが逡巡しているのはいいけど、つくるものも逡巡しているなと思うんですよ。一方では自分に素直なんですけど、ステートメントとしては弱くなっているなとは思う。
ご自身への厳しい評価ということでしょうか。
でも、そういう風に自分のことを考えなくなったら終わりだ、という気持ちもありますね。自分の仕事を蹴飛ばして、というか、自分と距離を置いて自分の仕事を見られなくなったらダメだと思っています。でも、そういう気持ちは昔から常にあって、むしろ建築家としては最初から、自分の仕事とシニカルな距離を置くような、歴史家的な見方をしてきたのかもしれない。
これはいつものことなんだけど、自分の仕事で「今回はよく出来たんじゃないか」と思うのは、何時も棟上げの時だけです。仕上げがそれにくっついて、最終的に竣工した時には「アァ、もうダメだ」って思う(笑)。竣工した時には自分の仕事のマイナスの点しか目に見えてこない。この繰り返しです。
自分で振り返って、自分の仕事で"これはよく出来たな"と思った事は正直言って一回もない。
いろんな賞をいただいた『日本橋の家』も、出来た時に新建築の編集者が見に来てくれて、「いい作品ですね」と言ってくれた。でも「嘘だ、ちっとも良くないよ」と思っている自分がそこにいる。時が経って、いろんな人にほめられると、疑い深い僕も「そうなのかなぁ」と思い始める。でも本人としては全然判らない。
10年くらい過ぎてみると確かに、あの頃の仕事の中だとあれが一番かな、というのは判ってくるけれども、その時には判らない。だって、『日本橋の家』が出来上った時には自分で全部お金を出すから全部塗り替えてくれって言っていた。
そういうエピソードがあったんですか!結局本当に塗り替えられたんですか?
「白」が違う、と思ったんですよ。色味が。で、塗り替えようと思ったら足場を組む所から始まって大変な工事になる訳です。その時まだ完全には竣工していなかったので、ここまできたら全部工事が終ってから塗り替えても同じ手間だから全部出来上がった姿を見て下さい、と工事の監督に言われました。それで竣工を待って、出来上がった姿をみて「やっぱり違う」とおもったんだけど、今僕がこれを全部塗り替える、と言い出す事によって起こる混乱がある。まずはクライアントが不安に思う。そんな「白」い色の色味の違いなんて、そのことを気にしている建築家だけの問題。他の人にとってはたいした問題ではないことが、その時にようやく理解できた。あえてクライアントを不安にしたくはなかったので、塗り替えるのは止めました。でも勿論、クライアントには自分の気持ちを説明はしましたけどね。彼は今の「白い色」で満足しているし問題ないと、言ってくれました。
まぁ、それだけ自分の仕事に思い入れがあったということなんでしょうけれどもね。皆に良いね、と言われても素直に信じられなかったのは、そんな訳です。
その不満や思いが、次を作りたいという動機に繋がっていくということですか?
そうですね。
それは表現者の性かもしれませんね。
もちろんプロの建築家として、クライアントが求めているものを提供するという事に関してはちゃんとやっていますよ。その自信はあるし、ちゃんと評価されるべきレベルに達している自信も、実は密かに心の中にはあります。ただそれと同時に、自分自身に対して期待を持っているもう一人の自分が心の中にいるんです。そのもう一人の自分が自分の作品を見たときに、「あぁダメだ」って毎回思うんですね。そんな分裂した自分がもう一人いること、そんな自分のことをとっても嫌な奴だと思いますね。仕事との距離感の問題というか、仕事に対する不満足感というか。
でも、ある種の着地は絶対なさっているわけですよね、その時には何かしらの決断をされているはずだと思うのですが。
勿論、そうです。 でも実はその最後の決断が、一番自信がないんですよね(笑)。クライアントや工務店、それに原稿なんかでは自信に満ちた風に言っていますが。
いろいろお話を聞かせていただいて、岸さんは、誠実に建築と向き合っていらっしゃる方だということがよくわかりました。
だから、そう思われるのが一番嫌なんだけどね(笑)。 ほら、『逡巡する思考』の本の表紙に書いてあるコピーにもあるように、優れた建築家は“嫌な奴"だって。だから僕は嫌な奴になりたいんだよ(笑)。

2007年11月にオフィスにてインタビュー
インタビュアー:齋藤孝司(MEDIA
SHOP),岡澤理奈(岡澤理奈事務所)
岸和郎 WARO KISHI + K.ASSOCIATES/Architects http://k-associates.com/

1950年 横浜市生まれ。1973年 京都大学工学部電気工学科卒業。1975年 同大学工学部建築学科卒業。1978年 同大学大学院修士課程建築学専攻修了。1981年 岸和郎建築設計事務所を設立。1981年〜1993年 京都芸術短期大学。1993年 事務所をK.ASSOCIATES/Architectsに改組。1993年より京都工芸繊維大学にて教鞭を取り、2000年より同大学大学院工芸科学研究科造形科学域・建築設計学専攻教授。カリフォルニア大学バークレー校、マサチューセッツ工科大学など多くの大学で客員教授等を歴任。
主な受賞は、1991年 くまもと景観賞、1993年 日本建築家協会新人賞、1995年 ケネス・F・ブラウン・アジア太平洋デザイン賞功労賞、日本建築学会作品選奨、1996年 日本建築学会賞、日本建築学会作品選奨、2002年 愛知まちなみ建築賞、2004年 明石市都市景観賞、2006年 デダロ・ミノス国際賞審査員賞、2007年グッドデザイン賞など。
主な作品に、日本橋の家(1992)、園部SD Office(1993)、紫野和久傳(1995)、山口大学医学部創立50周年記念会館(1997)、かづらせい・寺町(2000)、苦楽園の家U(2001)、深谷の家(2001)、stadium600(2001)、和歌山の家(2002)、Hu-tong House(2002)、東大津の家(2003)、子午線ライン船客ターミナル(2003)、Paju SW office(2004)、住田歯科診療医院(2004)、ルナディミエーレ表参道ビル(2004)、代々木上原の家(2005)、武蔵野段丘の家(2005)、ライカ銀座店(2006)、GLASHAUS / 靱公園(2007)など。

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『逡巡する思考―Writings1982-2007』 |
| 共立出版, 2007 3,990円(within tax) 光が満ち風が吹きぬける、「気持ちのいい空間」。直交座標系を追求する気持ち。東京や大阪ではなく京都にこだわる理由。いい建築はイヤな奴でないとできないと思っている、自分自身のことも決していい奴だとは思っていない、という建築・設計への意志表明。 |
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『建築を旅する』造形ライブラリー04
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| 共立出版, 2003 3,675円(within tax) |
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